はじめに

本当は笑いを分かってる場合じゃない日常で
卅八十一 2022.09.01
誰でも

嫌になるくらい相も変わらず笑いが好きだ。

実際嫌になってしまっている日がよくある。

なのに相変わらずチェックする習慣が止まらない。

惰性なのか愛なのか分からない。

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もうバラエティ番組だとか芸人の存在に相当情操教育されてしまった。

今さらなんでも大喜利にして笑い事にする癖はもう治らない。

キャラクターやギャグ・ネタの分析は無意識に行う人間になってしまった。

一体どうすればいいのだろうか。

もう生まれ変わらないと治らないだろう。

これは自分にとってセルフケアなのかセルフネグレクトなのか判別がつかない。

お笑いのファンも職業として選択する人もグラデーションがある。

笑いを語れる自由が誰にでもあるのは、賞レースがあるたび現れる素人の一言の感想から、ニュース記事にして稼ぐライターなど乱立しまくる存在から実感する。

問題はちゃんと対象に対する愛と距離感を自覚できているかだ。

私の場合は少なくとも冷静にTwitterの字数制限の140字以上は語れるような根拠のない自信があった。

***

過去、浅草キッドのボケ担当玉袋筋太郎のイベントでの発言が忘れられない。

「俺と(水道橋)博士と江頭(2:50)はお笑い終身刑だ」

たけし軍団の本でもなべやかんがビートたけしは死刑囚みたいだと話していた。

死ぬと決まった以上、「色々な事を・これだけは」とやり尽くしているような罪人と同じようだからだと。

いやしかしもう日本で住んでいたら全てを笑い事にさせることを強要される。

たとえ芸人でなくてもだ。

手垢がつきまくった表現だがユーモアのハラスメントだ。

全員お笑い終身刑をくらっている。

いちいち笑いの目線やフィルターを通される。

ユーモアのセンスとコーティングを問われる。

マキタスポーツの言うところの一億総ツッコミ時代だ。

なんだか偶然にもオフィス北野を退社した芸人3人が続いた。

このセルフツッコミも笑いのフィルターや目線が無意識に通されたと言えるだろう。

***

とにかく好きでもあり絶望もしたからお笑いをやっぱり語りたい。

他人からみると音楽や漫画や政治と比べて、笑いを語っている私が最も熱く楽しそうに見えるらしい。

毒にも薬にも下手したら供養にも肥料にもならないかもしれない。

それでも私は日本のお笑いについてくどくど語る面倒くさい人に加わりたくなってしまった。

もう過剰に芸人を天才だ努力家だと褒め称えるのも、文化教養レベルが低い・あの人で笑ったことないとマウンティングするのも、うんざりだ。

これからクスリともせず書いていきます。

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