落語と寄席の再考③
ピン芸人の九月はこう感じた
その場では最低限の落語・寄席の慣習や知識などの補足にとどめた。
そのうえで再構成して文章としてまとめた。
以下はその記録である。

カラオケ店にて終演直後に感想を聞きました ***
落語自体への言及
─今回初めて寄席で落語を観てどうでしたか。
普段僕がやっているのはコントで、よく見るのは漫才とコントなんです。落語は初めて見たんですけれど、似ているところも違うところももちろんあるなという感想です。
今日は新作が多かったのもあるのでしょうけど、一番最初に気が付いたのは、「落語は新作落語としてやるときに落語であることに割と言及していいんだな」っていう。
漫才やコントで「これ漫才やから」「これコントなので」みたいなツッコミ、たまにあるんですよ。でも、あんまり良しとされていないんです。なんなら基本駄目というか。受けにくくなるし、いいとされてない。邪道というか。よっぽどうまいやり方しないと成立しないし、うまいやり方で盛り込めたとしても、それを嫌う人はいっぱいいるんすよ。客でも同業者でも。
現に『M-1』とか『キングオブコント』とかで、ネタ中に「漫才」とか「コント」っていうのを言っちゃうネタって、多分10年に1本だと思うんすよ。そんぐらいないんですよ。基本的にやっちゃ駄目とされているから。
でも、落語だとそれは違和感ないんだなっていうか。落語って、「これは落語である」っていうこと、「自分は噺家で今落語をしてる」っていうことを、自覚的に喋っていいんだなっていう。驚きました。芸種や文化の違いなんでしょうけど。
ああ、とはいえ、今日見たものの中にはほぼコントみたいなのも別にありましたね。
─新作をつくるとコントみたいになる。それがジレンマなんですよ。
そうですね。今日見た新作落語だと、コントでもできそうだなというのもあったにはあったんです。その中には落語の方がいいネタになるんだろうなっていうものもあったし、コントでもあんま変わらないネタになりそうなものもありました。
やっぱこと最近のコントって、小ボケいっぱい積んでいくものは主流じゃなくて。いわゆる設定バラシがあって、システムでみたいなネタが多分多いはずなんですよ。
設定バラシのネタ、『キングオブコント』とか『M-1』もそうなんでしょうけど、賞レース以降って、設定伏せて始まって。バーンって設定出すネタが多いんです。小ボケで取っていくというよりは、設定で押すみたいなネタが多分多いはずなんですけど。まさにそういう文法のネタもあったなっていう。そこはびっくりしましたね。
時系列と心の声
とはいえ、演出面といいますか、演技面といいますか、中身の細かいところを言えば落語じゃなきゃいけないこともいっぱいあったように思いました。特にですね、時系列をポンポンと飛べるのが羨ましいです。凄く羨ましい。「次の日」って言わなくても、次の日なんですよね。あれ、コントでやると暗転とかになっちゃうので、演出として派手になっちゃうんですよ。さりげなく次の日に行けない。暗転がメインのネタになっちゃうというか。でも落語なら割とポンポン行けるし、ふつうに次の日にできるんだなっていう。
そう考えると、そうですね、落語の方がテンポいいんだってびっくりしました。なんだろう、長さなのかな、「落語はテンポが悪い」というイメージがなぜかあったんですけど、それは全然違ったなっていう。場面の切り替わりとかスムーズだし。
あとそう、説明セリフもスムーズなんですよ。舞台上に1人しかいないのも相まって、そいつの心内文、心の内側の部分を言っても違和感がないんです。場面の転換セリフとかにも使えますよね。心内文。コントだと絶対無理です。あんなに心の内側を言ったら、もうそこが本題のコントに見えてしまう。でも落語の場合は心内文をゴリゴリに入れていい。なぜなら、落語は最初が演者のお喋りで始まってるから。もともと状況を俯瞰して喋るのが許されやすいというか。
─まくらですね。
仮にコントだとして、「いやあ残業大変だな、疲れちゃうな。あと1時間くらいかかるかな。頑張ろう。いやあ、給料安いし大変なんだよ」とかって言ったら、もう、なんかあんまよくないって見られちゃう。下手だなって思われちゃうんですよ。あとなんだろう、「お昼ご飯楽しみだな」とか言ったら、そんなこと口に出す奴いないだろって見えちゃうんです。セリフが悪目立ちしてしまうというか。どうしてもそれしかやり方がないときにはやるんですけど、基本的にはみんなやりたがらないことなはずなんです。
でも、落語はまくらから、お喋りから始まっていますよね。だから、お喋りと芝居の中間ぐらいのことは当然やっていいですよ。違和感なくやれてしまう。心の内側のことを口で言っちゃうって、ちょうどお喋りとお芝居の真ん中じゃないですか。だからやれるんですよ。事前にああいうことをやるための足場が出来ていると言いますか。
馬鹿の描かれ方
元々イメージはあったんすけど、登場人物には馬鹿が多いんだなと思いました。馬鹿多め。そうっすね。キャラクターは馬鹿というか。なんなんだろう。ちょっと不注意な奴や不用意な奴。何かそれを表現することに、落語の何らかのコアがあるんだろうな。
コントにも漫才にも、お馬鹿系のキャラネタって結構よくあるんです。でも落語の馬鹿は、コントや漫才の馬鹿ほど極端な馬鹿じゃない。コントや漫才だともう、馬鹿を出そうと思ったらめちゃくちゃ馬鹿じゃないといけない感じになってるんですけど…。落語の馬鹿って、ちょうど周りに存在する、いるぐらいの馬鹿なんだって。
いるぐらいの、というか、そうですね、もっと言えば、自分の中にもあるぐらいの愚かさですね。馬鹿ってよりは愚かさかもしれない。なんでなんだろう。どうして落語に出てくるお馬鹿さんはいるラインになってるんですかね。結果的にそれって、あるある性とか共感性みたいなのがどっかには担保されることになりますよね。前向いてやる演芸だからなのかな。最初喋りかけるところから始まってる演芸だからなのかな。いずれにしても、なんだろう、自分や他人の中にある愚かさを芸に昇華してくれてるんだな、っていう感覚はありました。
話題としてのコンプラ
話題として、コンプライアンスを気にしてるんだなってのも気付きました。話題として、落語にいっぱい出てきてたんです。これ、話題としてってのが重要で、コンプライアンスそのものではなさそうというか。あくまでも話題としてのコンプラ、みたいな。話のタネにしたい感じっていうのかな。こと、話題としてのコンプライアンスは、非常に漫才でもコントでも今トレンドなんです。それは落語でもそうなんだなっていう。
ただでも、うーん、そうですね、やっぱり漫才やコントと全く一緒の、同じ構造の問題なんでしょうけど、コンプラのネタってやっぱあれだよなっていう。「話題としてのコンプラ」のネタになってしまうところがあるから難しいなっていう。それは思いました。
それはつまり、何か触りづらそうに触ってるなっていう感じですよね。ちょっとなんだろう。コンプラそれ自体から距離を取って、コンプラの受け取られ方の話をしていて、実はコンプラの話をしていないというか。なんだろう、それってコンプラのネタというか、話題としてのコンプラのネタだなって思いました。凄く芯から遠い感じというのかな。別に今、世の中でコンプラが騒がれてなかったら絶対そのネタやってないだろうなっていうか。面白い話題を10個選んで無人島に持って行くとしたとき、持って行かないだろうなっていうか。
コンプラが話題にされているのを見ながら、そうですね、落語ファンが昨今のコンプラ関係の話題についてどう思ってるのかなと思いました。
今回はそういうこと、ハラスメントみたいな言葉を入れていた噺家が3人いて。その中にはハラスメントっていうものに対する世間の風潮がうるさすぎるよ、もうちょっと自由にやらしてくれよっていう側のものもあったし。一方で、ハラスメントっていうものを通じて、人々が苦しめられてきたよねっていう認識に立っているものもあったんですよ。
つまり二つ、対立する価値観から放たれてる言葉があったんですよね。お客さんの感覚はどっちに近いのかなってのは思いましたね。どっち側で見てるんだろうっていう。
笑いやすさと媒体
そうだ、そうだ、こんな笑えるんだってのは驚きました。隣のお席に座られて、結構こいつ笑ってるなと思われてたと思うんですけど。いや、それにしてもこんな笑いやすく笑えるんだなっていうのは。ちょっと思ってたより驚きました。新作が多かったというのも、ひょっとしたら理由としてあるかもしれないけど。もっとしんみり聞くみたいなのも多いのかなと思っていたんです。でも全然そんなことはなく。よく笑える。
そう考えると、近いメディア、媒体で言うと映画なのかなと思いました。漫才やコントより映画に近い。1人で映画やってる感じ。転換がすぐできるとか、心内文が使えるとか、「俺は○○」みたいなのも言っていいとか、そういうのも含めて。映画。ないしはアニメ。そういうものが近いのかもなって思いました。アナログでそういうコンテンツを再現している感じというか。
だからだんだん、だんだん目の前の光景が画面っぽく見えるんですよ。座っている落語家さんの姿がスクリーンになっていく。笑いやすさも相まって、ハートフルなコメディ映画とか、アニメとか、そういうものと手触りが近くなっていく。そういう感覚がありました。
面白さが上がっていくコンテンツ
─古典落語はどう思いましたか。
古典の方が落語を観た感覚はありました。それは満足したということでもあるし、そのぶん見づらさとか、落語特有のハードルを感じたということでもあったかもしれません。
もちろん、新作でも落語を見たなって思えるものもあったんですけどね。でもやっぱり、中にはこれは正直コントでもできなくはないな、何ならコントだろ、と思うものもありました。コントとして見ても面白い、っていうことの裏返しなので、普遍的だってことなのかもしれないんですけど。
そうですね、古典にしても新作にしても、ついて行けるところは全部面白かったですよ。ただやっぱり、ついて行けないところはいくつかあったなあ。落語を見るのが初めてだったので。
なんだろうな、落語の予備知識とかなのかな、知ってたらめっちゃ面白かったんだろうなって場所は、ぼちぼちありましたね。
「わあ、何をやってるかは何となく分かるんだけど、ギリ知らないな。たぶんなんかの落語の決めゼリフを引用してるんだよな」みたいな。仕組みはわかるけど、元ネタ分からん、みたいな箇所があったんです。分かったところは全部面白くて、分からないところも結構あったっていう。そんな感じでした。
だから今回落語を初めて見て、そうね、10回見たらもっとおもろいやろなっていう。そういうことを考えました。沼るのもめっちゃ分かるというか。1回見た人よりも2回目見た人の方が面白いんだろうし、3回目の方が面白いんだろうし。予備知識の蓄積に伴って、どんどん面白さが上がっていくコンテンツなんだなって感じました。
落語同士のフレーズの引用とか、話のジャンルの見取り図とか、頭の中に紐づいておくべきものがいっぱいあるんだなって感じです。この話はこういう話でこういう人がよくやる。難易度・出現頻度はこのランク、みたいな。そこをなんとなく分かっておきたかったです。
特にそうですね、今日見たものの中で言えば、話し方が難しくて何言ってるか分からないって設定(※ネタは『たらちね』でした)のものがあったじゃないですか。
あれって、ネタ中で難しくて何言ってるか分からないパートと、何言ってるか分かるパートを交互に見て行くわけじゃないですか。でも、難しくないとされてる方の喋り方(江戸時代の言葉や江戸弁)もたまに分からなかったんですよ。僕が悪いんですけどね。知らないから。でもあのネタだけは見て追っていくのが難しかったかもしれません。
所々のセリフとか、単語一つが分からない分には、僕が勝手に補えばいいわけじゃないですか。それくらいは観客としてやった方が楽しめると思うし。
でも、話し方それ自体をネタにするタイプの話だと、ついて行けなくなる瞬間があったわけですよ。まあきっとネタによるところなんでしょうね。ああいうのも慣れていったら絶対面白いんだろうな。
お客さんの気持ち
─お客さんの反応はどう感じましたか。
結構受けてるな、お客さんが笑いどころを拾うの上手やなって思いました。最初のつかみとかからちゃんと反応があって。
ああ、そうだ、それでいえば、お客さんの反応にきっと影響しているところなんですけど、噺家が変わるごとにまくらが入るのって面白いなって思いました。何というんでしょう、毎回前説が入って仕切り直され続ける感じ。
あれって、お笑いライブだったら1人がやって終わりですもん。冒頭の前説が1人いたとしても、それ以降の演者は頭から全部本ネタに入ってしまう。
でも、落語家さんたちはみんなリセットしながら進めていく。それって凄くいいシステムだなと思いました。お客さんが反応しやすくなるというか。頭の切り替えがスムーズというか。
そうだ、落語家さんたちの間に出て来た色物の方々、ああいう色物は色物で、味変と言うんですかね、凄くいいシステムだなって思いました。そういえば、幕間などで流れていた太鼓の音など、あれは生音だったんすかね。
─そうですね。寄席のお囃子は基本全部。
はー、めっちゃいいな。ああいう雰囲気とかすごく良かったです
─落語の師弟制度については。
そんなんかもう話の中で触れたりして、やっぱそれって感じられました。その師弟制度を聞いたりでもだから先輩話じゃない師匠話とかが結構フリートークでいいというか、つかみ部分で結構よくできるじゃないすか。だからその師匠との人間関係みたいなのがやっぱり中心にあるコミュニティなんだっていう。それは良い悪いじゃないし。ざっくりしちゃうんですけど。
平均年齢の違いによる重み
─今日はまだ落語界では全然芸歴・年齢的に若い人扱いされる出演者も多かったです。
ああ、そしたら、話題としてポリコレが出てくることや、コントっぽいテイストのものがあったことなんかも、世代感とちょっと関係しているんですかね。
─そうですね。やっぱり本当に昔の新作落語は平和な世界だなっていうのはあるんで。
なるほどなあ。いや、本当に勉強になりましたよ。落語って、やっぱり方法として強いわけですよ。シーンを切り替えるのがすぐできるとか。人物を切り替えが楽とか。小道具の使い方を工夫できるとか。それをコントで補うのが何があるかなとか、考えさせられました。
あとそうですよね、俺たちの中にもある愚か者の要素みたいなの。それをコントで表現するならどうやればいいのかなとか。普遍的な馬鹿を演じることで、人間のあるあるみたいな部分に辿り着きたい、っていう、そういう文脈を感じたんですよ。
漫才・コント系の人だと、人間の普遍的なところなんかにいない馬鹿を出しがちなんですけど。いや、もちろんそこのデフォルメ感もめっちゃ面白いし、それがかえって人間らしさだ、ってパターンもあると思うんですけど。なんだろう、でももっと、落語くらい微細な感覚を持って、もっと現実に近いところにある自分たちの愚かさを笑いにするのって凄く大事だなって。そのことが何かしらの許しになるとこもあるだろうなって。
で、そういう愚かさみたいなもの、普遍的なものを表現するには、やっぱり年齢の力って要るんだなとも思いました。
僕は普段、漫才やコントをする人たちの集団の中にいることが多いので…。すると、年齢感はやっぱ違うわけですよ。漫才師・コント師だと25から35がボリュームゾーンです。40ぐらいでやっと中堅顔ができるようになる。50からやっとベテランみたいな。
でも落語って10歳違いますよね。漫才・コントは30だと若手にできるんすけど。落語だと40で若手ですよね。結果、平均年齢はすごく上がるじゃないですか。
するとやっぱ「なんかいい年して何してんねん」の面白さが強くなりますよね。説得力めっちゃ出てるなっていう。なんか年齢分が乗っかってるんすよね。そしたら年齢分乗っかりスタートなので、そこでちょっと人生話みたいな、ちょっと教訓とか示唆のありそうな話をしても説得力は残るし。そこで人生の重み乗っけた上で、馬鹿なことやったら「何してんねん」ってなるので。トーンがシリアスでも馬鹿でも、どっち行くにしてもフリが効いてるんですよ。年齢っていう。それはずるいなっていう。どっちでもプラスしかないじゃないですか。それめっちゃ思いましたよ。プラスしかないやん。ああ、年取るのって芸においてはプラスしかないんや、っていう。
別の満足度
─それこそ落語は笑いのない人情噺とか怪談噺とかもあります。
ああ、そうですね。今日のネタはどれも笑えるポイントが多いネタだったんですけど、一方で笑いのない時間もありましたよね。ただ、笑いのないゾーンも満足度は別であるんだなっていうのを体感しました。笑えてなくても、何らかのポイントは高い時間っていうのかな。そういうのってあるんだなっていう。
─お客さんの満足の仕方が賞レースの拍手笑いとか、感心が勝るとかとも違う。
そうですね。単純なわかりやすい動きがあるわけじゃないのだけど、豊かな時間が流れている感じっていうのかしら。違う次元で何かが動いている時間というのかしら。その時間を待って、ゆっくり味わっていましたね、今日のお客さん。ほんまに良いお客さんというか、訓練されたと言いますか、凄いなと思いましたね。今日がたまたまなのかもしれないですけど。
─池袋だからっていうのも多分あったかもしれないですけど。
そんな簡単なネタばっかじゃなかったじゃないですか。でも、楽しみ方がもう分かっているんだなっていうか。僕は周りを見ながら、楽しみ方を教わりながら座っているような心地でしたね。凄くいい経験になりました。
***
一人コントを主とした一芸人としての目線と、お笑いも含めた広いコンテンツが好きな客としての目線を、どちらも聞ける貴重な機会になった。
この記事でも書いたが、今NSCでは単に生徒が考えてきたネタをすぐにスベった・面白くないと切り捨てるのではなく、伝え方の問題として捉えて指導する機会が増えているらしい。
ネタが分かりやすすぎても深みがないし、受けても消費されるサイクルが早いリスクがある。
その上でやはり分からなくてもそういうものだと一旦は客側が保留に出来る伝統芸能の強みが落語にはある。
映画に近いという指摘もあったが倍速やまとめ・考察によるファスト教養とは反する世界だ。
コンテンツとして分からないから面白さが上がっていく・沼るというのは重要な指摘であった。
そして表現の仕方・笑いの取り方が、古い・シラケるにならずにそういうものとして認知がされる。
ひょっとしたら若い噺家はコント・漫才や漫画などの他のコンテンツの影響が若干は入ってしまったかもしれない自作の新作や演出をしている古典でも、やはり落語や寄席の構造から独自性が残ることも分かった。
関西テレビの企画で落語のイニシャルからとって始まった『R-1』は、最初は座布団の上で行うというルールがあった。
それなのに大会を盛り上げるために一人だったらなんでもありとしてしまったために、料理で例えたらフランス料理(一人コント)と中華料理(ギター漫談)どっちが美味しいかというような『どっちの料理ショー』以上の不毛な戦いをさせる構図が出来てしまった。
賞レースとはいえ本来の落語や寄席の持っていたおおらかさがなくなってしまったのは皮肉な話である。
今回九月の感想のなかであった指摘から、寄席の客の勘の良さや各出演者の違いの受け入れというのはやはり貴重だと感じた。
平日の昼で人数が少ないとはいえである。
***
このルポの執筆・構成をアップをしている間に浅草演芸ホールの3月上席夜の部の蝶花楼桃花主任の女性出演者のみの10日間興行が決まった。
そして寄席も含めた驚異的な数の高座をこなす春風亭一之輔の『笑点』大喜利メンバー加入も発表になった。
今年もそれぞれ2つの協会では新しい真打昇進の興行が予定されており、落語協会では色物の江戸家猫八襲名披露興行も予定されている。
伝統の継続も変化も落語と寄席は同時進行している。
このバランスが良い方向で安定してほしいことを改めて祈るばかりだ。
今回のよりまっさらな気持ちと視点で初めて落語と寄席を体験してもらうルポルタージュは継続していきたい。
***
九月 出演予定ライブ
2.9 (木)京浜コント地帯 開場19:00 / 開演19:30
@横浜 Naked Loft Yokohama 現地 2000円+1drink 配信 1500円 (応援の上乗せ可能、※2週間アーカイブ付)
出演 メガネロック大屋/九月/徳原旅行
ピンのコント師3人によるライブ。 本ネタ&トークの流れで突然始まる即興コント企画のライブ。
2.19 (日)ジャス百烈拳 開場 19:00 / 開演19:10
@新宿Fu+803 料金 1500円
出演 小野寺ジャスティンのTwitterにて随時更新。
小野寺ジャスティン主催。 九月は3分ネター本。
2.25 (土)新道竜巳と大喜利
第一部 開場15:25/開演15:30/開演16:30
第二部 開場16:55 / 開演17:00/開演18:00
@阿佐ヶ谷産業商工会館
料金 前売1000円 当日1500円
詳細はこちら
2.26(日) 第100回単独公演 「俺が老若男女だ」
開場 17:30 / 開演 18:00/開演 19:30
@渋谷松濤 BASE 1500円+1drink
「老若男女」 をテーマにした90分のコント公演。 テーマに沿った10~15本のコントを披露します。
3.3 (金) -3.5 (日) 第101回単独公演 53時間軟禁ライブ 「何がまっさらな家だ」
開場 3.3 18:00/開演 3.3 19:00 / 開演 3.5 24:00
@兵庫県尼崎市のシェアハウス
入場1000円/応援入場2000円
53時間閉じ込められてコントをし続けるライブ。
九月以外出入り自由
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九月 各メインSNS
Twitter @kugatsu_main
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